大阪を初めて走った自転車
現在の大阪市西区川口1~2丁目、住友倉庫の周辺は1868年1月(旧暦で慶応3年12月)~1899(明治32)年7月の間、外国人居留地だった。当時の在日欧米人はこのエリア以外での居住が許されず、一帯は治外法権の欧米人街として整備され、洋館が建ち並び、教会があり、街路樹とガス灯、街路は歩車道分離(ここが大阪初だろう)、上下水道など、それまでの日本には無かった景観の街区が明治初年に、大阪や横浜・神戸などに現れたのだ。大阪の場合、当初はまず貿易商の、さらにはキリスト教伝道団体の拠点となり、平安女学院・桃山学院・プール学院・大阪女学院・信愛女学院などはここを創立地として発展していった。そしてテニスなどのスポーツ、牛肉・牛乳・パンなど洋食、洋式クリーニングなど生活文化もここから日本人に伝わった、と書けば川口が大阪の文明開化の発信地点だった事が判るだろう。約30年間の欧米人居住者は約780人。
当時の居留地の光景は、天神橋筋六丁目の「大阪市立住まいのミュージアム」を訪ねれば、川口居留地を再現した模型ディオラマで見ることができる。建物や街区のディオラマを見ると、オーディナリー型、いわゆる「ダルマ自転車」に乗る人物も見える。当時は実用的な乗り物は馬車か人力車で、まだ自転車は欧米でも高価ゆえ、富裕層の趣味の乗り物だった。この人物は大阪初のサイクリストということになるのだな。
オーディナリー型は本物を知らなくとも、図像として誰もがどこかで見覚えがあるだろう。廃れて120年も経った今も自転車のイメージ・シンボルとしてさまざまな場に使われ、親しまれている。佐野裕二の著書によると、オーディナリーは1870年に発明され、1885年頃最盛期を迎え、90年代初期にはセーフティ型に後を譲って衰退したというから、寿命は意外に短かったのだ。日本へ最初に入ったのは1877年頃と推定されているが、居留地の居住者個人の手で持ち込まれたものまでは記録がないだろうから、もっと早かった可能性もあろう。開港数年後の居留地の街角を走っていても不思議ではない。
ディオラマは当時の写真を基に製作されたものだが、カメラが普及する遥か以前ゆえ、現存する写真は多くはなく、エリアの景観の全貌を完全に再現するには不明部分が多いのが事実だ。 居留地の歴史研究に取り組む「川口居留地研究会」の資料を調べると、雑誌「上方」99号(1939年3月発行)の表紙が目に留まった。川口居留地の様子を描いた錦絵だ。紋付袴に山高帽の紳士や弁髪の中国人、クラシックなドレスの婦人、馬車・人力車と共にダルマ自転車に乗る人物も描かれている。描かれたのは明治時代だろうから、画師がリアルタイムで見た光景なのか? 外国人の珍奇な生活風俗を描いた画の細部には想像も込められた可能性もあるが、居留地の路上に自転車があったのは本当だと思える。
同じく佐野の著書では、自転車の日本渡来は慶応年間にミショー型が横浜へ、と推定されている。明治10年に横浜で石川孫右衛門という人物が貸自転車業を始めている。彼は横浜居留地で自転車を見たのかもしれない。川口居留地にもミショー型はあったとすれば、それが大阪初の自転車ということになる。
大阪府警は1871(明治3)年に西洋車(=自転車)取り締りを布令している。ということは既に市内で自転車が目立ち、事故を起こしていたのだ。「阿呆車」との異名もあったというから、想像がつく。また明治21年の「時事新報」には大阪の自転車事情について 「明治一一、一二年頃より自転車非常に流行せしが、」 との記事があるそうだから、最初の自転車ブームはこの時期。レンタサイクル業者が現れ、オーディナリーのコピーモデルが製作された。その元を辿れば居留地の欧米人居住者ではないか。川口居留地は大阪で初めて自転車が走った地であり、ブームの発信元だったと思われるのだ。展示ディオラマのような、「上方」表紙の錦絵のような、居住外国人がオーディナリー型自転車に興ずる光景も見られたのだろう。
参考文献: 川口居留地;大阪近代の歴史を考える。1~3号。川口居留地研究会。1988~94 開化大阪と外國人;大阪春秋53号。大阪春秋社、1988 佐野裕二:自転車の文化史。中公文庫、1988 自転車;機械の素。INAXブックレット、1988